「甘えの構造」を書いた土井健郎さんは日本人のもつ罪悪感について、西洋人にとっての罪悪感はもっぱら個人の内部の問題であると考えられるのですが、日本人にはそのような考えがないというようなことを指摘しています。それは、もちろん日本人が罪悪感を持たないということではなく、日本人の罪悪感は、自分の属する集団を裏切ることになるのではないかという自覚において、最も明らかにあらわれるというのです。(「甘えの構造」49 土居)。
そして、この罪悪感はそのまま日本人の恥の構造にもなるわけであります。西洋人ももちろん恥を感じます。しかし、日本人の場合、この恥が一番、明らかになる時というのは「自分の属する集団を裏切ることになるのではないか」という恐れからくるものだというのです。
「お母さんは先生に何と言ったらいいのよ。恥ずかしいわ」「皆様にご迷惑をおかけして、恥ずかしい限りであります」「ロゴス(LOGOS) LOGOS 鉄の職人 スタックダッチポットM 81062253に申し訳ない、恥ずかしい」「県民の皆さんに恥じないような、日本の皆さんに恥ずかしくないような結果を残したいです」などなど。
ですから、私達日本人は、過ちや不祥事が起こる前から「すみません、ごめんなさい」と誰かれなく謝り続けるのです。このような民族はあまり世界にはいません。日本で用事があって、近所の家の玄関のドアを開ける時、なんと言いながらあけますか「こんにちわー」ではなく、「すいません」もしくは「ごめんください」なのです。これは、将来、私達がその人に対して迷惑をかけるかもしれない、その恥ずかしい出来事に対して、それが起こる前から(多くの場合、それは実際に起こらないのですが)、防衛的に、事前に謝っておくということです。謝罪の前金、ディポジットということです・・・・。
恐れと恥にさよならしましょ。
マック
続きはこちら。今日お話したメッセージです。
よかったらどうぞ! ↓
恐れと恥にさようなら!
創世記3章1節‐10節
①さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。②女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、③ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。④へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 ⑤それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。 ⑥女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。⑦すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 ⑧彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 ⑨ 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。 ⑩彼は答えた「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
この創世記には最初の人、アダムとイブが神にこれだけは食べてはならないと言われていた実を食べてしまったことが書かれています。この前を見ます時に、皆さんご存知のように彼らは神が創造された完璧な世界に生きていたのです。しかし、彼らがその実を食べてしまったことによって、それまでの世界になかったものが二つ、この世界に現れたのです。今日はその三つのことをお話したいと思います。
私達がシリーズとして見ております「鎖を断ち切れ」ですが、今日は「罪悪感」ということについて見ます。これは私達の心にある罪の問題です。自分が心にもつ悪い事をしてしまったという思いです。英語でいうところの「ギルティー」ということです。そして、今日、開きましたこの創世記にはまさしく私達がもつところの罪悪感というもの、すなわちアダムとイブが罪悪感と共に生き始めるようになった様が記されています。
すなわち、彼らはまず最初に禁断の実を食べた時に、自らが裸であることに気がついて、その身をいちじくの葉で隠したというのです。彼らはそれまで自らの体に何もまとうことなく暮らしていたのです。しかし、この時から彼らの心の中にそれまでなかった「恥」という思いが起こったのです。
そして、彼らはそれだけではなく神から身を隠すために園の木の間に身を隠したのです。しかし、そこに神の歩まれる音を聞き、神が実際に彼らに語られた問いかけに対して「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」と答えたのです。
すなわち「食べてはいけない」と言われていた禁断の実を食べたことにより、彼らは「恥ずかしい」という思いと同時に「恐れ」という思いをもつ者となったのです。この箇所の前の2章25節には「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」とも記されていますように、これらは両方とも彼らが実を食べる以前には存在していなかったものであり、この「恥」と「恐れ」というものを私達も今日しっかりと引き継いで生きているのです。
創世記、なぁんだ、ただの神話にすぎないと思われる方がいるかもしれませんが、このところで「恐れ」と「恥」とズバリ二つのことを指摘している聖書には驚嘆する以外ありません。なぜなら、今日私達の人生に大きく影響を与えるものこそが、私達の心にあるこの「恐れ」と「恥」という思いだからです。もっと言いますと、時に私達の人生はこの「恐れ」と「恥」によって軌道が決められていくことがあるのです。今回八月まで礼拝メッセージのシリーズとして見ていきますように、この恐れと恥とが私達を縛りつける鎖となりうるということです。そこで、今日はタイトルにあるようにこの「恐れと恥からの決別」についてお話したいと願っているのです。
恐れ
そこで、もう少し詳しくこの恐れと恥ということを考えて見たいのですが、ここでアダムとイブは実際に何を恐れたのでしょうか。私達の心にある恐れとはどこからきているのでしょうか。それを知らない限り、この恐れを取り除くことはできません。
そのヒントが8節に書かれています「彼らは神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」。このアダムとイブの姿が何を物語っているのか。それは、彼らが「自らが神から姿を隠したくなるようなものを心の中に持ってしまった」ということです。もう一度いいます「彼らはその心の中に神から姿を隠したくなるようなものを持ってしまった」のです。といっても神は子供のかくれんぼじゃあるまいし、彼らが木の間に隠れても、彼らが禁断の身を食べたことはお見通しなのですが。
すなわち、彼らにとっての恐れとは彼らが誰にも知られたくない隠すべきものを心に持った瞬間、生じたものだったのです。そして、その初代の人間の心を私達も引き継いでおり、私達が心の中に、してはいけないことをすると、それに対してどういうわけか、心が責められるということを経験することによってうかがい知ることができるのです。
二月ほど前、私達の体内にあるDNAを研究しているフランシス・コリンズ博士という方の講演に行きました。彼は世界的に有名な方で、その分野では米国でもオピニオンリーダーになるような科学者なのですが、その博士が「人間は神によって創造された」ということの大きな根拠として受け止めていることの一つは「人間の心には良心」というものが生まれつき備えつけられているからだと言っておりましたが、この良心は他の動物には決してないもので、なるほどそうだなと私もそう思いました。
アダムとイブはその心の中にしてはいけないと言われていたものをしてしまったことにより罪悪感、すなわち良心というものをその心に持ったのです。そして、それが恐れを生み出したのです。そして、その恐れは自分達のしてしまったことが明るみにされ、自分達は罰せられるのではないかという恐れです。
私達の恐れというものも考えてみて下さい。その背後に私達は人に知られたくないものを持ってはいないでしょうか。そして、それが明るみに出る時に私達の心のどこかにそれに対して裁きを受けるのではないかという恐れがあるのです。人の究極の恐れは死だといわれますが、なぜ私達は死を恐れるのでしょうか。よく「この秘密は墓場まで持って行きます」と言われる方がいますが、実は墓場にまで持って行っても、その先にそれらが明るみにされて裁かれるのではないかという思いがどこか私達の心の中にあるのではないでしょうか。
私達はこの罪悪感というものを持ち続けて人生を送ります。これは大変にしんどいものであり、この罪悪感を誤魔化そうとして、罪に罪を上塗りすることもありますし、色々な刺激を追い求めてさらに大変な状況に立たされることがあります。また、その罪悪感に少しでも誰かが触れるなら自らを守るために攻撃的になります。また、この罪悪感をどうにか償おうとして(実際、誰も償いなど求めていないのに)、自分を責めて責めてその心にも体にも大きな傷を負うことがあります。
また、たとえば「私がこんなに良くしてあげたのに、あなたはどうしてそうなの」とか「あなたの助けを必要としているのに、なんで行ってしまうの」とか「みんなが大変な時に、なんであなたはそんなに気楽なの?」等、私達は互いの罪悪感というものにつけ込んで、利用しあうことがあるのです。この罪悪感を喉元に突きつけて、その人を操作し、その人を動かし、その人を支配するということ、このようなことは私達の日常でよく見かけることです。これらのことを見ただけで、私達の生活がどれだけこの罪悪感からくる恐れに支配されていることがよく分かります。
恥
次に恥ということです。特に今日は日本人という性質をもった私達のことについてお話しますが、私達日本人は「恥」ということにとても敏感な民族です。よく西洋と日本を比較して「罪の文化、恥の文化」とも言われます。
「甘えの構造」を書いた土井健郎さんは日本人のもつ罪悪感について、西洋人にとっての罪悪感はもっぱら個人の内部の問題であると考えられるのですが、日本人にはそのような考えがないというようなことを指摘しています。それは、もちろん日本人が罪悪感を持たないということではなく、日本人の罪悪感は、自分の属する集団を裏切ることになるのではないかという自覚において、最も明らかにあらわれるというのです。(「甘えの構造」49 土居)。
そして、この罪悪感はそのまま日本人の恥の構造にもなるわけであります。西洋人ももちろん恥を感じます。しかし、日本人の場合、この恥が一番、明らかになる時というのは「自分の属する集団を裏切ることになるのではないか」という恐れからくるものだというのです。「お母さんは先生に何と言ったらいいのよ。恥ずかしいわ」「皆様にご迷惑をおかけして、恥ずかしい限りであります」「世間様に申し訳ない、恥ずかしい」「県民の皆さんに恥じないような、日本の皆さんに恥ずかしくないような結果を残したいです」などなど。
日本では個人の不祥事に、関係のない人が責任をとって頭を下げたり、辞職することが多いのですが、これは日本的な罪と恥が入り混じったものであり、この場合、事実上の個人の責任よりも、自分が所属する集団に対する連帯感への責めの方が優先されてしまうのです。
しかし、皆さんこのように恥に対して私達が頭を下げても、そもそもその頭を下げている対象が定かではないのですから、私達はいつまでも、本当に自分が何に対して、誰に対して恥を感じているのかわからないのです。
ですから、私達は過ちや不祥事が起こる前から「すみません、ごめんなさい」と誰かれなく謝り続けるのです。このような民族はあまり世界にはいません。日本で用事があって、近所の家の玄関のドアを開ける時、なんと言いながらあけますか「こんにちわー」ではなく、「すいません」もしくは「ごめんください」なのです。これは、将来、私達がその人に対して迷惑をかけるかもしれない、その恥ずかしい出来事に対して、それが起こる前から(多くの場合、それは実際に起こらないのですが)、防衛的に、事前に謝っておくのです。謝罪の前金、ディポジットということです。
そして、この恥の思いは終わることなく、堂々巡りをしており、私達の人生の決断というものも「それがあの人、この人に恥ずかしくないかしら」ということで人の前にどう思われるのかということで決定されていくことが多々あるのです。私達が子供が高校や大学入試を受ける時、どこかの会社に就職する時に、何か高価な買い物をする時の心の中を覗いてみればそのことは明らかです。どうでしょうか、この恥という思いがどれだけ私達の日常生活において指導権をもっていることでしょうか。
しかし、これに対して第二次大戦中にナチスに捕えられ獄中で殉教したディートリッヒ・ボンヘッファーという神学者は『現代キリスト教倫理』の中で恥(shame)に関して興味深い神学的な洞察を語っています。分かりやすくいいますと彼は「恥とは人間がその本来、連なっていた源から離れてしまったことをいかんともしがたく思い起こすことであり、それはこの隔離に対して感じる悲しみであり、その根源に今一度、戻りたいという無力な願いであると言っています。人間は、その根源的な本質と自分がその存在全体に関わる最も大切な何かを失ってしまったために、自らを恥じると言っています。
このボンフェッファーが言っている恥というのは、明らかに創世記に記されているところの恥についての分析であり、その恥というものは根源から離れてしまったことをいかんともしがたく思い起こすことだというのです。すなわち、本来神に属していたのに、そこから離れてしまっているどうしようもない自分を思うことだというのです。
katajiya いちょう まな板 いちょう無垢一枚物 ハンドメイド制作 本格使用の 大サイズ size L 450×270 厚
死
六角ナット(2種(ECO−BS【5000個】ECO-BSナット(2シュ M3.5 黄銅/生地(または標準)
この言葉は私達が神との断絶の中に生きていく時に、その終局には必ず「死」というものが待ち受けているということです。そして、このことを否定する人はいません。私達は不滅の肉体をもっているのではなくて、やがてこの肉体に終止符が打たれて死ぬのです。アダムとイブはこの宿命をその身に負うようになり、その末裔である私達もその中に生きています。すなわち、アダムとイブは神との関係が壊れた事により、恐れと恥とそして、その結果による死と共に生きる者となりました。そして、それは私達とて全く同じなのです。
と、ここまでお話しますと、私達がこの恐れと恥から、そして死からどのように解放されるかということも分かってきます。それは、私達が神の前に罪意識とその恥の思いを持つことなく、もう一度、その神との関係を正すということです。
でも人間関係の修復ならまだしも、自分がなしてしまったことに対して壊れてしまっている神との関係を(それを聖書は罪と呼びますが)、私達は自分でどうこうすることはできないのです。肉体を打ち叩いても、お金で支払おうということで直るものではないのです。なぜなら、罪はそのような性質のものではなく、罪の解決は赦されること以外にないからです。そこで、今日、皆さんにこれからグッドニュースをお話します。
恐れと恥にさようなら!
コリント第一の手紙15章22節 にはこう書かれています「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」。
今までお話したように、私達は一人の人、アダムにより恐れと恥に生き、死ぬ者となりました。しかし、私達はキリストによって生かされるというのです。そして、このことはローマ書5章14節‐21節にも詳しく書いてあります。すなわち;
15「もしひとりの罪過のために多くの人が死んだとすれば、まして、神の恵みと、ひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、さらに豊かに多くの人々に満ちあふれたはずではないか」
17「もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか」。
(配電盤・筐体)Nito 日東工業 盤用キャビネット露出形 B35−56 1個入り B3556
20、21「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」。
ここで繰り返し語られている「ひとり」とは二人いまして、最初のひとりは「アダム」のことであり、二回目に言われているひとりは「イエス・キリスト」のことなのです。すなわち、私達の恐れ、恥、そして死がアダムという一人の人から私達に引き継がれたように、そこからの解放は同じく一人の人、イエス・キリストから来ているというのです。
私達は自分自身、本来あるべき場に戻りたいという魂の叫びに気がつかず、それがゆがみにゆがみ、罪悪感と恐れと恥と死に対する恐怖と共に日々過ごしています。その恐れと恥が私達の人間関係や私達の夢や私達が本来、神から与えられている素晴らしいタラントや計画にまで混乱させているのです。そして、これらからの解放は私達がもう一度神との関係を修復することなのです。
そして、そのためにイエス・キリストは私達のために十字架にかかられたのです。本来、私達は罪あるもので、神から近づくどころか隠れなければならない、罪悪感を一生、負って生きなければならない者であったのに、キリストはその私達の罪の身代わりとなられて、それゆえに神の前においてすら、私達の罪は完全に赦されて神の前に恐れることなく立つことが出来るのです。
このことをへブル人の記者は大胆にもこう記しているのです「兄弟達よ、こういうわけで、私達はイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができる・・・」(10章19節)
人間に許されている特権でこれ以上のことはありません。皆さんの中に罪悪感と恐れと恥と死、このことに縛られている方いませんか。振り返れば、自分で自分の人生の舵取りをしてきたのではない、今もそうだ。私の人生はこの罪悪感と恐れと恥と死によって握られている。これまでもそうだったし、今までもそうだったのだから、これからもそうであるに違いないと思っている方、もしいましたら、今日、あなたの心にキリストをお迎えすることを強くお勧めします。
皆さん、アダムとイブ、恥と恐れと共に木の間に身を隠していた時、神様が彼らに語りかけた第一声をご存知ですか。神は「あなたはどこにいるのか」といわれたのです。私達にとって、幸いなことは今も神様は「あなたはどこにいるのか」と私達に語りかけているのですから、私達がすべきことはたった一つのことなのです。そうです、ただ「神様、私はここにいます」ということなのです。
お祈りしましょう。
90s 青刺繍タグ 大きいサイズ XXL ■ Champion リバースウィーブ スウェット トレーナー ( メンズ ) 古着 90年代 チャンピオン 紺 ロゴ刺繍
↑↑ キリスト教ブログランキングに参加しています。
よろしければオープンラック シェルフィット オーダーラック本体 タフ1515-24ミディアムディープ 高さ149.9cm・奥行40cm・幅15−24cmをお願いします。
おもしろいです!日本人のみならずアジア系の人々と関わることが多いので、「恥」についても何かと考えます。「常に人目を気にして、人から見て恥ずかしくない生き方を求める」というのは僕も陥りがちな落とし穴ですね。
ロッカー 12人用 GLK-D12DTSW 鍵付き スチール製 オフィス家具 スチールロッカー 更衣ロッカー グリーン購入法適合商品 日本製 車上渡し
いやーかまたさん
お久しぶり!コメントありがとうございます。
そうですね、かまたさんはインターナショナルな毎日を送っていますね。色々な発見や驚きも多いのではないでしょうか。
「恥」ということや「面子」ということに対してアジア人は特別な思いをもっているかと思います。色々、そのあたりまた教えてください。
シリコンパワー ノートPC用メモリ 204Pin SO-DIMM DDR3-1333 PC3-10600 8GB×2枚組 SP016GBSTU133
先生のメッセージタイトルはクリスチャンの方のみならず、すごくノンクリスチャンの方々に切り込んでいく感じを受けますね。内容もよかったですが、ポスターもすごくアッピルーする印象を受けました。また、いろいろと教えてください。よろしくお願いします。
Kayson 16インチ クリスマスリース LEDライト20個付き ワイルドフルーツ 松ぼっくり人工リース フロントドア 感謝祭 クリスマス ハロウィ
Minoruさん
メッセージを読んでいただきありがとうございました。励まされました!お互い場所は違いますが、それぞれの場所で語り続けていきましょう。
佐藤産業 POWRY シェルフ 幅60cm 奥行40cm 高さ90.5cm ブラウン 可動棚 PW90-60S BR